仏教経典「ダンマパダ」
世間の人々は盲目である。少数のものが真理を理解する。鳥網から逃れ出で空に生還する鳥が少ないように。
良いこと、悪いことを判断するとき、私たちは周りの言動に頼り切ってしまうことがあります。
周りの意見を聞いて合わせたり、同じ行動をとったり。
「あの人がこう言ってるから」
「周りがそうしてるから」
「ニュースでああ言ってたから」
最近だと
「コロナウィルスが危険だから外に出るのはやめよう。イベントを中止にしよう」
それはもちろん大切です。新たな脅威に警戒するのは必要であります。
しかし、では毎年3000人以上死者の出るインフルエンザへの対策は大丈夫なのでしょうか?
また封鎖、中止、対策に対するデメリットは?
脅威はそれだけでありません。あまりにも1つの情報を過剰に捉える、力を入れすぎるのも危険です。
これでは顔への攻撃を警戒しすぎてボディーへのガードが疎かになっているボクサーのようになってしまいます。
(インフルエンザとコロナは同じウイルスゆえ、対策が功を成しているそうですが)

「社会的証明」という言葉があります。
周りの人に合わせて動いてしまう心理的性質のことで、
例えば
「街ゆく人々が一斉に空を見上げたら、自分も思わず見上げるという行動を取ってしまう」
「周りも使っているから安全(正しい)だろうと思い込んでしまう」
そのような周りに影響を受けて選択、行動してしまう心理的性質のことですが、これはまさに周りの行動や意見を正しさの軸にしていることを表しています。
たくさんの人が良しとしているからという理由で判断するのは大きな危険を孕んでいます。
なぜなら、良しとしている人たちも
「たくさんの人が賛成しているから正しい」
と思い込み、その意見に同調しているということが大いにあるからです。
こんな過剰な情報社会の中においても仏教は大切な知恵を与えてくれます。
仏教を開いたお釈迦さまは
「大切なことは自分の頭でしっかり考えなさい」
と説いています。

聞いたことを鵜呑みにするのではなく一度自分で考える。
お釈迦さまご自身の説法の後でも
「まずは私の話を疑い自分の頭で考えろ」
とおっしゃっています。
「周りの意見を聞きくことは大切であるが、しっかり精査すること、自分の頭でしっかり考えることを大切である」
と説かれています。
大多数の言っていることが100%正しいわけではありません。
実際「それでも地球はまわっている」と主張したガリレオガリレイは当時、有罪になっていますし、そのように正しいことを唱えてもその時の常識や大勢の意見と反すると間違い、悪だとみなされることは歴史を見ていると明らかです。
現代、多くの情報が簡単に手に入る世の中ですが、その情報に惑わされないよう精査する。お釈迦さまの説かれる「自分の中で考えることの大切さ」は今でも必要な知恵であります。

世間で当たり前になっていることや、自分の中での常識に疑問を持ってみると新たなもの、視点が見えてくるかもしれません。
仏教のお話は常に当たり前のことに「目を向け考える」ということをさせてくれます。
常識ではなく、本当に大切な世の中の真理を求める心を育んでくれます。
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